◆ 赤い電車コラム① ◆
■ ところで…… 「新・赤電車ま~けっと」 とは、何でしょう? ヾ(^-^)
2018年6月まで毎月第3日曜日、廃線となった谷汲駅にて開催された 手仕事マルシェ。
「赤い電車ま~けっと」の後を受けて、それまでの出店者さんが自主開催している里山マルシェ。
赤い電車ま~けっと時代、昭和レトロな赤い電車が横付けされた駅のホームにあるステージイベントが(なぜか)毎回そこそこゴージャスなのが特徴でした。
新・赤電ま~けっとも、当日は谷汲昆虫館にある展示物と館内に常設された鉄道模型運転会も開催されます。
駅だった跡地にはホンモノ電車が静態保存されています。
運転手&車掌さん気分で運転席に坐ったり、レールに降りたり、お子さまに特に人気のスポットです。
隣接するはなもも公園ではスケートボードスロープやバスケットスタンドもあります。
散策したり、ヤギさんに餌をあげたり、まったり昭和の雰囲気の漂う谷汲山参道と1300年の悠久の時を刻む華厳寺に行ったりもできる、お子さまと ママ・パパ・じぃちゃん・ばぁちゃん、みんなが一日ゆったり過ごせる、昭和な「コミュニティま~けっと」を目指しています。
後援:谷汲FunFun (谷汲駅跡地 揖斐川町指定管理団体)
サイト運営:布施院シェアマインド総研(無償協力)
◆ 赤い電車コラム② ◆
■ 「新・赤電ま~けっと」 のウィキペディア? ヾ(^-^)
(地域イベントとのジョイント開催)
新・赤電ま~けっとの前身は、「赤い電車ま~けっと」という、旧谷汲駅と谷汲昆虫館を少しでも隆盛させようと有志らが自主開催した里山イベントでした。
2015年秋に開催された「第27回 谷汲 もみじまつり」(2015.11.8)では、それまで自主的に開催されてきた手仕事マルシェ「赤い電車ま~けっと」が、谷汲観光協会主催のイベントとジョイント開催をはじめました。
その後、揖斐川町谷汲地域で行われる「豊年祈願祭・さくらまつり・新緑まつり・もみじまつり」など、町営イベント内でもフリーマーケットが定例開催されるようになりました。
「赤い電車ま~けっと」は、同エリアで定期開催されるフリーマーケットの魁となったのです。
その後の経過を追ってみますと、「豊年祈願祭」(2016.2.18 開催)でも谷汲駅でもマルシェを臨時開催し、「第28回 谷汲 さくらまつり」(2016.4.3 開催)では、会場隣接で「赤い電車ま~けっと」の特設エリアが割り当てられました。
それまで「谷汲観光協会主催」のフリーマーケットは、赤い電車ま~けっとの前身である「赤い電車まつり」に併催されたマーケット開催された2013年頃より、「新緑まつり」年1回程度の開催は行われておりましたが思うように振るわず、赤い電車まつり出店者を誘致する形で2015年より継続しております。
赤い電車ま~けっと出店者は、この同一地域で出来る範囲で協力を行い、現在の「新・赤電ま~けっと」ではこれらの出店者さまが自主開催と言う形で継続しております。
(追記)
2016年6月13日に新たに5か年事業として「谷汲山樂市樂座」設立総会が開催されました。
これは谷汲山開祖1300年記念事業として、既存の任意団体とは別に地元の有志によってクラフトマーケットを開催したいという意向で毎年開催を計画しているようですが詳しい情報は伺っておりません。
谷汲地域では、旧谷汲駅での「赤い電車まつり」「新・赤電ま~けっと」「豊年祈願祭」、大駐車場での観光協会主催のする「もみじまつり」「さくらまつり」「新緑まつり」のフリーマーケット、揖斐川町議員さんの声掛けで2016年秋からはじめた「樂市樂座」と、狭い範囲で3拠点でフリーマーケットが開催されています。
本サイト運営を行っている「布施院シェアマインド総研」はもともと、地域起こしも考える個人事務所で、他の近隣自治体や個人主催のイベント、拠点整備の支援を行っております。
(新・赤電ま~けっとの歴史)
この「新・赤電ま~けっと」は、もともと 2012年11月からはじまった「赤い電車まつり」がその母体の「赤い電車ま~けっと」の休止にともない、それまでの出店者による自主開催マルシェです。
「赤い電車まつり」は廃線になった「谷汲駅」を最初に指定管理請けた地元のNPO「ふるさと谷汲」や地元団体や鉄道愛好家などで構成される「赤い電車まつり実行委員会」が発足し、毎年秋に開催されるようになりました。
初回の「赤い電車まつり2012」は、産業遺構として静態保存されている木製の赤い電車を、人力で綱引きしようというのがイベントの目玉でした。
しかし、当時のその目玉イベントが終わると、潮が引くように瞬時に人が消えたそうです。
そこでイベントをもう少し長時間盛り上げようと、2013年の「赤い電車まつり2013」からは手仕事マルシェと音楽ステージを併設したところ、動員数がいきなり倍以上となり、終日コンスタントに人が留まってくれていたため、翌年の2014年秋の「赤い電車まつり2014」にもさらに盛大に行われ、音楽&手仕事マルシェとして定着しました。
そして2015年6月からは、その年の秋の「赤い電車まつり」に向けて、小規模な音楽マルシェとして今日の「新・赤電ま~けっと」の前身となる「赤い電車ま~けっと」がスタートしました。
この当初の開催背景の一つに、地元谷汲で毎月18日に開催されている(?)「十八日まつり」という存在がありました。
「十八日まつり」は、もともと谷汲山華厳寺の観音命日のイベントとして、地元の有志団体によってはじめられました。
名鉄谷汲線廃止以前は、遠方から電車で訪れる客も多く、毎月18日の参道はかなり賑わっていたとのことです。
ところが、2001年9月30日を以って鉄道が廃止とともに一気に観光客が減り、今では観音命日の18日でも参道のお店が閉まっているという状況にまで追い込まれてしまいました。
諸説ありますが、観光客は一番混雑していた頃の 1/100 以下にまで落ち込んだとのことです。
鉄道があった頃は、お年寄りはお孫さんを連れて、岐阜駅を出れば終点まで難なく来ることができました。
それが今や自動車でなければ気軽に来れなくなり、長距離の自動車運転は高齢者にはハードルが高いため、やがて人影が遠のいたのです。
現在でも公共交通で来るなら、JR大垣駅から一時間半に1本程度の樽見鉄道に乗り換え、最寄駅からバスに乗り、バス停からさらに徒歩での移動となります。
乗換えが多くて時間も融通が利くほど便を出してませんので、健脚なお年寄りでもお孫さんを連れてくるなどは到底無理な環境になってしまいました。
せめて観音命日の18日だけでも公共交通の足を確保するために、岐阜バスによる月に1回1往復便だけバスが運行されていますが、あまり周知がなされてません。
さらに、2019年9月30日。奇しくも名鉄谷汲線廃止の日に、近鉄バスも定期運行を廃止することとなりました。
もともと、お年寄りはバスだと体の負担も大きい(信号の度に停止発車が腰の負担となる、曲りカーブは鉄道より急で姿勢制御が困難)とのことで、岐阜バスも、ほぼ毎回無人で運行されていました。
月一のバス運行は、廃線の後釜として体裁だけ整えた、実にもったいない事業のように思えます。
それでも参道では、この18日の観音命日には特別にお得な商いというものを続けている店がまだ幾店舗かあり、それを受けて谷汲駅跡地では地元にある 揖斐特別支援学校 が 谷汲駅跡地で物産展も催していました。
しかし、ある年から、この事業も18日開催が見合わせとなりました。
その背景としては、
①18日と固定されると毎月曜日が月ごとに代わるため、学校のカリキュラムの構築が困難になるということ。
②さらに土日になってしまった場合、生徒を動かすことも出来ず、職員が休日出勤して出店しなければならないということ。
そこで、まず開催日が毎月18日という定期開催という前提が崩れ、土日にかかる月は開催されませんでした。
2016年度からは、18日に近い学校カリキュラムに合わせた曜日で開催されております。
しかし、開催日が周知されてない関係で、あまり振るわず、18日にせっかく出店されても、平日は客足がないため、それも休止となりました。
(出店物の詳細については 揖斐特別支援学校 0585-56-0050 にお尋ねください)
いずれにしろ、「十八日まつり」自体が鉄道廃止と共に徐々に廃れ、参拝客が激減したのと、自動車で直接参道駐車場まで行かれるため、駅前での立ち寄りも少なく、開催しても人が来なくなってしまったという背景があります。
自動車社会を悪く言うつもりはないのですが、人の動態交通地図ががらりと変わってしまったのです。
それまでも谷汲駅跡地に出来た「谷汲昆虫館」の入館者数を増やそうと、昆虫にも環境にやさしい乗り物(=鉄道)という位置づけで、鉄道模型ジオラマを特設し、「鉄道模型運転会」というものも、いつからか毎月第3日曜日に開催しはじめました。
しかし集客振るわず、特別支援学校の定期開催も日曜日開催が無くなったため、それに代わるものとして2015年6月、秋の「赤い電車まつり」までの周知活動、及びイベント振興も兼ねて、「赤い電車ま~けっと」がスタートしたという流れをもっています。
「赤い電車ま~けっと」は、こうして
① 「赤い電車まつり」までの準備と賑やかし、
② 「谷汲昆虫館」入館者数の増大、
③ 「十八日祭」に行われていた「揖斐特別支援学校物産展」の後釜、そして
④ 「地域起こし」としての振興 を目的に、
それらを総括して行うNPO事業の一つとして、スタートいたしました。
しかし、スタート時点の予算はゼロベースではじまりました。
イベント告知のチラシを作る予算もなく、出演者、出店者誘致や一般客への告知もままならず、総て手作り、クチコミでスタートするという困難な船出でした。
スタートした2015年6月の出演者はゼロ。 出店者もゼロでした。
初回は、イベントとして成り立たなかったのです。
お金をつかわずにイベント開催するのは大変です
その後、出店者の皆様のご協力もあって、翌月から徐々に周知され、2015年秋の「もみじまつり」からは、お蔭さまで谷汲観光協会の地元イベントでもジョイント開催協力のお声掛けがあるまでになりました。
2016年2月18日の「豊年祈願祭」、2016年春の「さくらまつり」、「新緑まつり」にも開催協力を行いました。
当初、新緑まつりは、2016年まで第3日曜日の開催で「赤い電車ま~けっと」の開催日と重なっていたため、大々的な協力ができずにいました。しかし、谷汲観光協会事業に「赤い電車ま~けっと」がジョイント協力するように、2017年からは時の観光協会事務局職員の強い働きかけもあって、開催日を第2日曜日に変更して開催することになりました。
お陰様で2017年は例年にない賑わいを持てました。
このように、地域の各団体が連携をもってイベント開催することが、地域の賑やかさを形づくっていくものかと思います。
その後、世話役が第三日曜日定期的に行えなくなり、それまでの出店者と駅員ボランティアの皆様が「赤い電車ま~けっと」を引き継ぎ、「新・赤電ま~けっと」として継続しています。
「新・赤電ま~けっと」の出店料はカンパ制。
観光協会主体の地元イベントや、「赤い電車まつり」の事業イベントでは出店料が固定されておりますが、毎月駅で開催されている「新・赤電ま~けっと」ではカンパ制でイベントを行っています。
いただいたカンパは、イベント資材等の整備・消耗品購入費、ポスター・チラシ制作などに充てられています。
お越しいただいた時にお気持ちを「イベント支援金募金箱」へよろしくお願いいたします。
(※ 「赤い電車まつり」では、ポスターもチラシも作成されているため、出展料が定められております)
(※ その他の地域事業イベントでは、それぞれの主催者の提示する出展料が徴収されます)
出演される方も、出店される方も、遊びにくる感覚で愉しんでいただけたら幸いです。
出演者は、地元の人に認められると、春と秋の観光連盟イベントの大ステージに招致されることもあります。
(※ それらの事業イベントでは、開催規模に応じた交通費などの薄謝をご用意しております)
これまでの皆様のご厚情に深く感謝申し上げます。
(イベント名称についての余談)
「赤い電車ま~けっと」時代には、毎月の開催タイトルに、電車の車両番号のような数字がつけられて開催されていました。
出店者や出演者がどの月にいらっしゃるかを明示するためのものとして機能していました。
数字は開催される月を意味しており、年号の下2桁 と 開催月 を表現しております。
例えば、2016年の06月開催の場合は、「赤い電車ま~けっと■1606」というような名前をつけられます。
そして、地域のイベントとジョイントしての開催の場合は暫くは「臨時列車」としてその番号の後ろにタイトルが付与されておりました。
・ 2月18日開催の「赤い電車ま~けっと■1602豊年祈願祭臨時列車」
・ 4月第1日曜日開催の「赤い電車ま~けっと■1604さくらまつり臨時列車」
・ 5月第3日曜日開催の「赤い電車ま~けっと■1605新緑特急」
・ 11月第2日曜日開催の「赤い電車ま~けっと■1611もみじまつり臨時列車」
……というような具合です。
しかし、次第に観光協会イベントがその存在感を増してくるにつれ、2017年からは特に名称で観光協会主体のイベントには「赤い電車ま~けっと」の名前をつけなくなりました。
また毎年秋の 「赤い電車まつり」は「赤い電車まつり■2020」 というような年号表記としております。
谷汲ではイベントによって主催者と会場、連絡先、開催主旨が違うのでご注意ください。
前述したとおり、この地域で開催されるマーケットイベントとして、開催日が近いけど主催者が異なるイベントがございますのでご注意ください。
《揖斐川町観光連盟谷汲支部》
(2016年の例)
・ 4月第1日曜開催の「さくらまつり」(さくらまつり実行委員会)
・ 11月第2日曜開催の「もみじまつり」(もみじまつり実行委員会)
会場:谷汲大駐車場 及び 駐車場内特設会場
出店者受付は谷汲振興事務所(揖斐川町観光連盟谷汲支部)でもお受けしますが、新・赤電車ま~けっと側でもお申込みいただけます。
《谷汲昆虫館指定管理団体の谷汲funFun主催のマルシェ》
・ 毎年2月18日開催の「豊年祈願祭」
谷汲踊会場:谷汲踊が披露されるのは「谷汲駅前」「谷汲大駐車場」「参道仁王門前」の3拠点。
こちらは伝統芸能のイベントです。
ま~けっと会場:谷汲駅跡地のみ(通常の 新・赤電ま~けっと会場)。
出店者受付は普段の新・赤電ま~けっとでもお申込みいただけます。
日にちが固定されているため、平日開催になる場合があります。
《揖斐川町観光連盟 谷汲支部 主催のマルシェ》
・ 5月第2日曜開催の「新緑まつり」
(主催:揖斐川町観光連盟・谷汲支部 / 参道および境内・谷汲駐車場が会場)
赤い電車ま~けっと側でもお申込みいただけます。
マーケット出店場所は谷汲大駐車場の特設会場で普通のフリマと同じ感覚 でご出店できます。
《赤い電車まつり実行委員会 主催》
・ 毎年秋開催の「赤い電車まつり」
こちらのイベントは「赤い電車まつり実行委員会」が主催となっております。
谷汲FunFun、赤い電車友の会、新田昭和会などの有志で構成されています。
出店者受付は会場である「谷汲昆虫館(NPO法人ふるさと谷汲)」でもお受けいたしますが、毎月の「赤い電車ま~けっと」会場でも受付け しております。
《自主運営マルシェ》
・毎月の「新・赤電車ま~けっと」(赤い電車まつり開催月を除く毎月第3日曜日開催)
こちらのイベントは出店者主催となっております。
当日は、継続出店されている方を探してお尋ねください。
《谷汲山楽市楽座実行委員会 主催》
・ 2016年10月から毎年秋に開催されている「楽市楽座」
は、独自に開催されているもので詳細がお知らせされてませんので、イベント連絡協議会サイトにも反映することを見合わせてます。
5年間の県予算事業とのことですので、少なくとも2020年までは開催されるものと思います。
赤い電車まつり&ま~けっと、観光協会主催フリマに続く任意団体開催で、地元谷汲の出身の町会議員のお声掛けで組織されました。
2016年6月の設立総会の計画案では、谷汲商工会前駐車場・谷汲33ホール駐車場・谷汲大駐車場という計画がされておりました。 が、隣接とはいえそれぞれが離れた場所にあるため、実際は毎年谷汲商工会隣接の町議員自宅前で開催されています。
◆ 赤い電車コラム③ ◆
~ 谷汲地域の処方箋~
布施院シェアマインド総研 宗主:布施院博之
以下、「新・赤電ま~けっと」の前身「赤い電車ま~けっと」世話人の当時のブログ記事より、当時の思いを遺したものです。
■ 「赤い電車ま~けっと」 イベントコーディネータの思い
(最初に結論)
これからの地域振興は前例などの既成概念に捕われない、行政主導ではない、自由闊達な地域コミュニティの核となる場が必要と感じています。
(助成金事業を考える)
秋の「赤い電車まつり」 は当初、2012年~2014年の 3年連続開催の助成金事業でした。
2015年からは助成金もなく、それに伴い企業などの協力もいくつか降りられたため開催が危ぶまれましたが、地域のみなさまのご尽力でなんとか継続する運びとなりました。 ありがとうございます。
さて昨今、さまざまなことが助成金というものではじめられ、それが打ち切られると立ち消えるというものが多く散見されるような気がします。
本来「助成金」というものは、継続してものごとを行うのに必要な初期資本金のような起爆剤だと思うのですが、なぜ、それが打ち切られると運営が継続できないのでしょうか。
それには、何か理由があるはずです。
さんざんこのサイト上や、どこかのブログとか Facebook 等にもこれまで書いてきたことですが、秋の本祭とも言える 「赤い電車まつり」 を盛り上げるためにはじめた この 「赤い電車ま~けっと」 は、ゼロベースからはじめました。
そもそも最初に積まれた「資本金がない」のです。
しかし、地域に人はいます。
無い物はどうしようもないですが、あるものはあります。
みなさんの自分の既に持っているものを持ち寄って開催するというスタイルで、どこまでできるのでしょうか。
※筆者は経済学者でも社会学者でもなんでもありません。
以下はただ体感的に感じていることを「思い」として述べさせていただきます。
(疲弊社会)
「赤い電車ま~けっと」のイベントコーディネーターをさせていただいているサイト管理人は、もともと地域起こしのお手伝いでステージ音響などを個人的に請け負っていた、利益を得ない範囲のほぼボランティアで協力 をしていました。
当初、低迷している庶民の生活を向上させるために、当時の私は「まず地域が元気になることが必要」と感じていました。
収入も乏しいのに地域振興イベントなどに積極的に参加協力しましたが、それを続けているうちに自分自身の生活その他は破綻しました。当然ですね。
しかし、やってみて感じたのは、仮に地域が活性化しても、地域に住まう個人の生活(消費者)まではなかなかすぐに活性化しないのです。
活性するのは、せいぜい経済活動をしているその地域の商業などです。しかも一時的です。
助成金でイベントをいくらやっても消費者生活の向上や消費者自身の活性には直接結びつかないのです。
消費者の生活が向上しないと、地域の商業もイベントの時と助成金の余波が残る時期だけしか振るいません。
そこのところに助成金を投入すると一時の花火のようなもので終わってしまい、イベント自体が終わればやがて沈静化します。
そしてそれを継続するために、毎回運営資金が必要で、助成金や協賛金・寄付金が重要なウェイトを占めてきます。
しかし、いくらやっても消費者の生活向上に直結しません。
やがて、主催側も地域住民も、疲弊してそういったイベントもやれなくなります。
助成金がなくなると立ち消える構造の一因は、まさにここにあるのかと思います。
それでも景気がよい時やバブル余波のうちは、これでもまだなんとかなったのかもしれません。
(社会構造の変化)
ところで、このグラフをごらんください。
国が発表した人口構成の変化です。何かお気づきでしょうか?
次にこちらの記事と表をご覧ください。
高齢者貧困の表です。
消費者生活が低迷したままやがて高齢者となると、生活が苦しくなります。国も自治体も負担が大きくなります。
すなわち、国も自治体も苦しくなります。
高齢者率が高い谷汲のような中山間地域では特に、自治体のみならず国にとっても深刻な社会問題でもあります。
間違いなく、近い将来は人口減少に歯止めが利かなくなります。
そうです、人口は減少に転じました。
既にモノは潤沢にあるのですから、産業は作っても売れない、安くても売れないという傾向になりつつあります。
より機能性のいいものが出れば、今あるものと置き換え購入ということでまだ多少は消費は伸びます。
しかし、やがてそれも頭打ちになるでしょう。
ここで置き換え購入された、まだ使えるものがフリーマーケットなどに流れて行きます。
または、リサイクルショップに安く買いたたかれて、とりあえず目の前からは消えます。
一昔前は、フリーマーケットやリサイクルショップがやたらと流行りました。
しかし、何でもいいモノが安く手に入ると、フリーマーケットやリサイクルショップにあるものは魅力が薄れます。
しかも、フリーマーケットやリサイクルショップにあるモノより新品の方が安くて高機能だったりします。(笑)
そうなると、リサイクルショップは消費者から買いあげても なかなか売れない わけですから、タダ同然で仕入れて薄利多売にしなければ経営が成り立ちません。
或いは、処分費として消費者からお金をとり、それを売って収益を得ると言う、「ダブルインカム」経営になりつつあります。
するとまた店内に物は溢れ、倉庫や店舗の維持費、人件費などの経費が嵩むことでしょう。
ボディブローのようにじわじわ効き、やがてリサイクルショップは産業的に破たんするかもしれません。
それと同じように、個人ショップみたいなフリーマーケットも振るわなくなります。
出店料払って出品しても売れずに持ち帰ることになります。
そうなると、まだ十分使えるのに産廃料金払って処分する消費者も増えてきました。
もはや、フリーマーケットを開催すれば人が集まるという時代は終わったのかもしれません。
さらにこの先、高齢化率が高くなるということを考えてみましょう。
考えるまでもありません。
これから先、まだ使えるのに使用者がお亡くなりになった時に使われていたモノが一部はゴミに、その他は大量に社会に出回るということになることは十分予想されます。
フリーマーケットもリサイクルショップもアテにならないとなると、今度はタダで人々の間をモノが行き交います。
こうなると、モノ余りという状況を越して、モノが溢れかえります。
一部で「お金のいらない世界」のようにもなります。
そういった社会背景で産業イベントや商業イベントなどに助成金を投入していても、キリがありません。
花火のように短期間で立ち消えるイベントに、助成金を出すことで国も自治体も疲弊していきます。
やがてこのような一次的なイベントに助成金決裁する議員や自治体職員の見識が問われるようになるでしょう。ややもすると、そのようなことをした議員や自治体は近い未来に弾劾されてしまうかもしれません。(笑)
国や自治体財源が減少すると、それでもまだ花火のようなイベント開催をするために、主催者は地域の方への協賛をお願いすることも増えるでしょう。
しかし、協賛金を求められる地元の企業や個人店主も、財政的に余裕があるわけでもなく、協賛金を出すにしろ、出さないにしろ、きっと心苦しいと思うのです。
まして、地域住民などの消費者個人に寄付金を求められても、家計的にも厳しいご家庭も多いことでしょう。
経済成長・経済発展は もはや幻想 です。
産業振興や商業振興などの売り上げ増大(税収増大)を狙うイベントに税金を財源とする資金を捻出するのは、私見ながら、あまりに浅慮かと思うです。
税金を投入して ゴミを殖やすようなものです。
助成金などは、今ある 活かされてないもの(施設)を活かす企画や、自治体負担を軽減する継続的な活動を行う団体(または個人)にこそ必要 かと思うのです。
時代は「経済成長・経済発展でない、マインド的な成長と発展が必要な時代」に突入しました。
それは、これまで人類発展の牽引役となってきた貨幣制度というものが、近い将来ゆるやかに終焉していく ことを意味していると予想しています。
日本は一足先に、お金に換わるものの発明 や 新世紀社会システムが必要な時代になりつつあると思うのです。
そうなると、「何をするにもお金」な都市部よりも先に、経済的弱者な地方自治体こそ未來の担い手になることでしょう。
かつて、自民党が2015年2月7日に「地方こそ成長の主役」というキャッチコピーを発表しましたが、「成長の」というくだりは不要と思うです。
「地方こそ主役」。
それでいいと思いますし、そうでこそあってほしいと思います。
(平成の大合併の弊害)
どこの自治体の職員も頑張っています。
一昔前、平成の大合併で多くの自治体が統廃合されました。
人員が整理されたところも多くあるでしょう。
正職員から嘱託職員に切り替わった仕事もあるでしょう。
自治体は人件費が軽減されましたが、そのしわ寄せは職員の生活の犠牲の上に成り立っているようにも思います。
職員は消費者でもあるので、収入が低廉化されると消費が落ち込みます。
統廃合で経費的なところだけを観て「効果があった」と喜んでいられるのは、束の間。
たかだか数年だけの歓びだけで終わります。
そして、それまで別自治体だった職員が合併された地域同士の相互理解のために人事異動がなされますと、その地域のそれまでを知っている人が地域から消えるため(ある意味、慣れ合いは解消されるかもしれませんが)、一方で地域振興はなかなか振るわなくなった感があります。
また、統廃合で重複する職務が整理され、人員が削減されたこともあるかと思います。
そして人員が削減されると物理的なマンパワーが不足します。
一例を挙げると、統廃合前の地域行事はそのまま各地域で継続することはありますが、合併した新自治体の中のそれぞれの地域でそれらのイベントが重なるという問題も散見されます。
このサイトが支援しているこの揖斐川町でも、合併された旧谷汲村の「もみじまつり」 と 同日開催 で 「いびがわマラソン」が開催されています。
職員が削減された上、イベントが同日別地域で開催されるわけですから、自治体職員は たまったものではありません。
同日二拠点開催は、人材的にも、政治的にも、地域的にも、物理的な困難が生じます。
それらの式典に連れまわされる町職員や議員、要職者も大変でしょう。
「谷汲・もみじまつり開会式」のようなセレモニーは、「いびがわマラソン開会式」の後に議員さんらが谷汲へ移動して行われます。
つまり、実際に開会した後の昼前に、「形だけの開会式セレモニー」のようなものが開催される……というチグハグなことも発生しています。
そういった地域イベントは大切ですが、合併前のものをただ引き継いでいては何の発展性もないと筆者は感じています。
(ハコもの行政は庶民の生活を脅かす)
そして、今はまだ「なにもしなくてもお金が必要な社会」ですから、生活ベースのお金もどんどん吸い取られていきます。
高騰する税金。それで社会が安定機能すればまだしも、どうもそうは思えません。
不必要な公共事業や、どう考えても価格と内容に釣り合わない設備ものが国内にあまりにも多く散見されます。
ハコもの行政とも揶揄される、設備投資も業者の言い値でオーバースペックなものをモノの価格よりはるかに高額で自治体は買わされ、有効活用もされず廃棄されるというものを多く見てきました。
どう考えても実際価格より多い金額というものが、税金などから支払われ、それが有効活用もされず数年で廃棄されている現実をみると、違和感を感じます。
かつて、名古屋市のある公共施設の設備を見せていただくことがありました。
職員によれば、「この音響設備には一千万を超える機材が投入された」……と、言われていましたが、観てみるとどう見繕っても1/4以下の、数百万円程度のものでした。
確かにいい機材は設置されていました。が、調整できないようパネルをつけて目隠しされ、スルーで回線が引き回されていたのです。
つまり、なくてもいい機材をお飾りで設置して使わせないようにし、機材点数を稼いでそれぞれに販売価格以上の値段をつけて請求して、値段を釣り上げていたわけです。
そんなことに私たちの税金が使われています。
本巣市の公共施設の設備も見せていただきました。
同じように、設置されているだけでそれが無くても問題ない機材が納入されたり、必要以上のオーバースペックな機材が選定されていました。
特筆すべきことは、年に数回使うだけの、再生だけでことが足りる数万円の音楽再生装置に、業務レベルの数十万円のものが投入されているのを見た時は眩暈がしました。
そこは年に数日しか活用されないのに、閉館の「蛍の光」を流すだけのCD再生装置に、なぜか業務用レベルの音程編集装置(デジタルピッチシフター)付のモノが設置されていました。
こんなものが必要なのでしょうか。
毎日カラオケ大会でもするのならともかく、館内放送音楽用にそのスペックは理解に苦しみます。
公共事業はザルです。
税金の無駄遣いを糺さず、職員の雇用や地域の振興を低減させる行政の姿勢にはいつも疑問を感じます。
一昔前、市民オンブズマン等がいろいろ社会の無駄を指摘したことが新聞記事を賑わしたりもしましたが、最近はめっきり減ってきているような気がします。
経済団体の圧力でしょうか?
そうでなくても、市民ボランティアでそれらの社会の無駄を指摘し、適正化していくのはそれらの活動をするには、行う人たちの負担が大きすぎるのです。
要は、国も自治体も無駄遣いを停める機能が脆弱なだけではなく、単に一部の入札業者の利益を確保しているに過ぎません。
地域住民が必要と感じているものがなかなか整備されず、庶民が知らないうちに業者提案の不要なスペックなものに莫大な庶民の税金を投入する構図はもう卒業してもいいのではないのでしょうか。
どれもこれも、単にお金だけしか見ていない現代社会の弊害にも思えます。
そこに本当の地域振興のマインドがありません。
これも経済成長・経済発展だけを優先させてきた社会マインドの弊害かと思うのです。
■ お金に必要以上に依存しない地域コミュニティをつくる
(お金を考える)
赤い電車ま~けっとは、地域のみなさんと参加してくださるみなさんの力でここまで開催してまいりました。
「赤い電車ま~けっと」「赤い電車まつり」の会場である谷汲駅跡地は、自治体より指定管理を請けたNPO法人、ふるさと谷汲を中心に、この施設の運用を盛り上げようと、団体構成員やそこに働いている方、地域のみなさんが日々さまざまな努力しております。
地元の大工さんがステージをつくってくれました。
棄てられるもので活かせるものは貰って来ました。
口コミで徐々に拡がってまいりました。
資金がないので、当初からいろいろ皆が知恵を出し合って苦労しました。
チラシを印刷する資金もないので、当初イベント開催はネットとクチコミだけではじめました。
お金というものは、あれば確かにスタートが早いです。なければそうするしかありません。
もし、助成金などというものがもたらされたとしたら、一時のイベント開催資金などにせず、継続的な地域活性活動となる仕組みづくりに使わなければならないと思うのです。
毎月開催している「赤い電車ま~けっと」がゼロベースではじめたのは、お金ももちろんなかったからですが、そういったマインドがベースになっています。
当初は周知がなされてなのでお客さんも来ず、初回の出店者さんはゼロで、出演者さんもいなくて当然だったかもしれません。
翌月から、ありがたいことに都合のつく方たちが定期的に出店してくれるようになり、それで細々と続けることができました。
そこで今一度、助成金を含めて「お金」というものを考えてみたいと思います。
(お金はエサ)
助成金などのお金は、言うなれば池の鯉に撒くエサのようなものです。
なにもないところに撒くと、気付いた魚はエサを求めて寄ってくるのはあたりまえです。
それを続けると、魚は助成金というエサを期待して人が来るだけで寄ってきます。
エサを貰えない面白みがないとやがて人に寄ってこなくなります。
そしてまた別のエサ(お金)のあるところを求めて回遊します。
人の世界も同じように思えます。
助成金に寄ってくる企業や人の欲は際限ありません。
助成金は、その地域に継続できる仕組みなどを対象に投入するべきものと思います。
よって、一時のイベント開催費用とするのは浅慮です。
ましてや、その地域外のコンサルタントなどやイベント企業の収益として支払うのは問題外です。
また何も現状構造を変えない、維持するだけの継続雇用人員の資金でもありません。
組織も人も、前例に捉われずに、常に改革や改善をし続ける必要があると思うのです。
(場づくりが大事な社会の到来)
しかし、例えばエサのないところにも魚はいます。
そこが居心地がよいから居るのであって、エサは危険を冒して出て行き、また居心地のいい棲家に戻ります。
人も同じなのかもしれません。
つい、お金に目を奪われがちですが、本当は「誰もがお金よりも心地よい居場所」 が 必要なのです。
居心地がよければ、お金と言うエサがなくても戻ってきてくれます。
地域の場合、まずは産業振興や商業振興よりも、そういった居場所があれば人は寄ってくると思います。
「赤い電車ま~けっと」「赤い電車まつり」は、ほぼ初回からそうして参加されていた出店者さんや、小規模開催でモノが売れなくても根気よく参加してくださった方の努力と遊び心でこれまでやってくることができました。
最初にチラシも印刷していない、告知もしていないので集客が弱いのであれば、出店者さんは躊躇したと思います。
初回は出演者も出店者もゼロでした。その後もなかなか振いませんでした。
だからと言って、一度限りで場を閉めてしまえば何も残りません。
継続は力となります。
それを続ける場所と人のマインドが必要です。
助成金などのお金はそのスタートと改善の為に齎されるものと考えます。
経済至上の社会で、モノの売れないまーけっとが振るわないのは当然なのかもしれませんが、そうでなくても毎回趣向を凝らしたりして、根気よく開催することが大事なのかもしれません。
一度見えてももっと売れるところに行かれた出店者さんもいらっしゃいます。
それを生業にされている方であれば、無理は言えません。
いつかこの場が賑わい出してからまた戻ってこれるように続けていくことが大事な気がします
居心地が良い場所は、最初数人が愉しい場所であるだけでいいのかもしれません。
しかしそれを維持するにもお金が必要な社会なのです。
これがお金のパラドックスであり罠みたいなものです。
しかし、お金がなくても、場づくりこそ大事だと思うのです。
(赤い電車ま~けっとが定額のイベント出店料を取らない理由)
当初、「出店料をとって大々的に開催したらあっという間に人がくるからどうだ?」という話もたくさん持ちかけられました。
出店料を取るなら出展者さんには来てもらった恩義を返す義務が生じます。
いわゆる、出店料とは出店者さんからいただく助成金みたいなものです。
最初にお金を使って、「いち早く結果を出し、出店者に返すべきだ」とも言われたこともあります。
それは、「今日支払った分を今日取り返す、できれば支払った分以上に」……というマインドがベースの図式です。
これは「経済成長・経済発展」というものと同じで、際限がありません。
そして、ほとんどのま~けっとの基本運営形態がその「経済成長・経済発展」をベースにした、単なる経済活動の場なのです。
それではデパートの図式を屋外イベント会場に移しただけに他なりません。
殆どの場合、デパートは出店料を取り、誰が・どこで・どのように作っているのか、不明瞭な商品を供給する場に過ぎません。
マーケットも出店料を支払って、生産者が直接供給するならともかく、仕入れたものをただ売るだけではデパートと変わりません。
経済成長・経済発展が望めない社会では、この形態は同じようにいずれ先細りするような気がします。
出店料よりも、会場にきていただける人のマインド(お気持ち)の方が大事だと考え、出店料などは参加者の裁量に任せることにしました。
集金もしないので、会場の募金箱が出店料の受付場所です。
みなさんのお志で運営されています。
(必要なものは、必要な時に、必要なだけ)
人類は最初、必要なものを 必要な時に 必要なだけだったと思います。
現代では、そう必要ではないものでも、付加価値つけて高く売り、経済をまわします。
そして、それを買うためにお金が必要で、労働に見合う対価を求めます。
工場などでは、自分には必要にないものを、大量に作り出す労働をして賃金を得たりします。
農業では自分に必要なもの以上に大量に作り出します。
それを、安く仕入れて高く売るという、中間業(サービス業)が捌きます。
そして、売れ残ったものを処分しても損が出ないように、最初に価格をつりあげています。
中間業者は、そうした采配で流通の主導権を得ます。
そして、余剰品はゴミとなる可能性が高まります。
そうなれば間違いなく資源を浪費します。環境も悪化します。
お金で誤魔化され、知らぬ間に生産者の時間も浪費させられています。
それらの社会形態に加担した人の、「お金」と「時間」も浪費します。
知らないうちに私たちは、そのサイクルに組み込まれているわけです。
そして、それらの構造についていけなくなった人たちの「貧困」も生みだします。
そして、また更に労働力が安く、資源のある地域(地方や途上国など)へ企業が進出します。
そこに気付かず、単にお金に振り回されると、地方の空洞化のあとに国の空洞化が待っています。
TPPなどの経済グローバリゼーションは、まさにこの「王手・飛車取り」に近い状態に感じます。
そうして国際的には、経済格差として途上国の発展も阻害する構造が起きやすくなります。
行く末は地球規模で環境悪化が問題視されます。
こういった活動を推進するのが経済活動を行う企業です。
企業とは業(カルマ)を企てるとはよく言ったものです。
これまで何度も言うように、国内人口は減少に転じました。
だとすれば、今度はどんなにモノを作っても売れない、働いても思うようにお金が得られない世界が待っています。
お金の価値が薄れてきます……というより、お金という道具の使い方が変質してきているのかもしれません。
お金は、消費生活を続ける暮らしのためではなく、何かを始める時にだけ必要なものという世界へのシフトです。
これぞ助成金の本質かと思います。
そういうマインドであれば、助成金は有効に機能するかもしれません。
助成金は、決して単に払い続けられる甘い汁であってはなりません。
お金とは「思いというお金(思い価値=おもいかね)」を持ち寄って場をつくるのに最初だけ必要なもの。
費用対効果重視の常識とはちょと違います。
お金は、常に馬車馬のようにまわさなくても、豊かな気持ちで生きていける「地域創生の礎」に使いたいものです。
昭和の雰囲気がのこるこの谷汲の地に、ちょっと、そういうことを感じてくれる場があってもいいのかもと思いました。
(値段は消費者が決める時代へ)
「赤い電車ま~けっと」は、ショッピングモールを屋外に持ち出したような商業まーけっとではなく、居心地のいい場となってくれたら幸いです。
まーけっと運営で主催側は利益を得ていません。
そう思ったので、毎月のイベント予算はゼロベースのままです。 出店に際する規定出展料はありません。
出店料はお気持ちだけの金額をカンパという、支払う側の裁量に委ねています。
いただいたお志はその運営資金などにさせていただいております。
赤字ですが、おかげさまで主催側の負担が減りました。
そうして、開催はじめてから7か月かかって漸くチラシが出来てきました。 実にスローライフなのです。
「いつまでに、何を、どれだけ」「より速く、よりいいものを、より多く」
そうして無理した分、価格をつけて消費者に提示する時代」は、もう終わりにしてみたらいかがでしょうか。
(チラシ制作の裏話)
このチラシにしても、ゆっくりなら18000枚印刷できますが、何かの大きなイベント配布に間に合わせようと最速でお願いすると4000枚そこそこしか印刷できませんでした。
あっさり 「何かに間に合わせる」のをあきらめました。
いつまでに、何をどれだけ、という追い立てられる社会もそろそろ卒業しましょう。
急ぐ必要はありません。
無理はしてはいけません。
そうすれば世界は総て最善な状態で推移します。
無理して何かに間に合わせない。
それより、一人でも多くの人に届けた方が、チラシをデザインしてくれた方に対する、礼儀のようにも思えました。
一人でも多くの人にイラストレーターさんの絵も内容も見せることができますから。
そして、チラシは無理して、あわてて撒く必要もありません。
イベントは毎月やっているのですから、どこかのタイミングで見た方がふらっと来てくれればいいのです。
よって、このチラシも期日が過ぎたら棄てられるようなものではなく、通年使えるものにしました。
チラシは1束50枚単位に手で数え、原則手渡しでご縁のあるところにお届するというスタイルを取りました。
行ったついでのところに置いていく。
非効率ですが、それが重要に思うのです。
あとは、これまでいろいろお世話になったところに思いつくまま、挨拶まわりにいって置いてくる。
または出会った方に渡す。 ただそれだけで数日で10000枚弱が旅立ちました。
ご縁にありがたいばかりです。
(このイベントが目指す世界)
やがて、このスタイルを刷新する時が来ると思います。
しかし、開催規模が大きくなると、問題が生じた際に短時間で問題解決するために、お金が必要になることもあるかもしれません。
お金はスピードです。時間と同質です。
しかしずっとお金がなければ維持できないのであれば、それこそ本末転倒です。
何でもお金が必要と言う社会構造もそろそろ見直す時期に来ているのかもしれません。
恐らく、アレをしてくれたから見返りにコレを返すでは、これから先の未来社会は成り立ちません。
これまでは Give and take の世界でした。
やっと Give and give の考えが広まり出しました。
これから先の未来は Give and share や share and share,Pay It Forward の世界が待っているように思えます。
経済成長・経済発展だけのお金だけの視点では未来はありません。
やがてお金のいらない世界が実現するでしょう。
■ 閑話休題 フェアトレードというものを考える
(先進国は本当に先進的なのか)
筆者は2014年頃からフェアトレードイベントのスタッフに呼ばれました。
先進国の搾取により途上国が脅かされてるのをなんとかフェアにしようという素晴らしい視点だと思います。
しかしながら、先進国が必要以上にものを求めるからコスト削減と労働力を狙って途上国にお金と産業を持ち込んだ結果だとすれば、筆者の不勉強さも相まってなんだか釈然としません。
原因を作った側がなんとかしようとするのはわかりますが、その先進国社会体制を維持しつつなんとかしようというのは、どうも違和感を覚えます。
そもそも先進国という名称が釈然としません。
先進国は本当に先進的でしたか?
先進的なのは実は途上国側だったという視点はないのでしょうか?
経済社会では人が動けばお金も動きます、まったくのボランティアでない限り。
フェアトレードを謳う業者は消費側に啓蒙することは肝要ですが、その活動のために利益を消費者側から過大に得てはいないかが心配です。
消費者からしたら今一つフェアトレードというものが当事者にならない限り不明瞭です。
そもそも先進国と途上国では経済ベースというものが違います。
それを先進国側事情に合わせたら途上国側が搾取されるような形になるのはなんとなくわかります。
大量に購入するから単価を安くしろ的なものはその最たる例です。
先進国が望む産業とお金というものが途上国へ持ち込まれてない時代は今と比べてもっと不幸だったのでしょうか。
持ち込んだから起こってしまった不幸ではなかったのでしょうか。
その国は確かに先進国にはあってあたりまえのモノがなくて不便だったかもしれません。
でもお金や物では得られない何かが豊かだったようにも思えます。
自然が豊か、環境が豊か、時間が豊か、心が豊か……。
お金とモノ以外のものが豊かだったのではないかと感じます。
(今のような先進国がなくなったら)
仮に盟主のような先進国がある日突然一斉に消滅したとします。
途上国は不幸のどん底になるでしょうか?
お金と仕事をくれていた盟主的存在が消えたことで、一時の混乱があるかもしれません。
そして生産能力などの国力をつけた途上国は、自律的に売り先を求めて他国エリアに行ってはまた現地で雇用生産させて自国を潤すということをするかもしれません。
具体的に言うならアメリカの代りに中国が地球のグローバルスタンダードになるのかもしれません。
EUの代りに華僑が経済界を牛耳るかも知れません。ドルの代りに元が世界経済の主流になるような?
しかしそのような構造Copyでは単に盟主にとってかわって同じことを続けるかもしれません。
やがて同じような結果となり、また未来に搾取構造の花が咲きます。
それどころかアメリカの数倍の人口を持つ中国がそうなった場合、ものすごい勢いで環境悪化することは目に見えています。
今のこの世界を疑いなくそれを繰り返すのであれば、そこに学びはありません。
うまく説明できませんが、持論の結論からいって、グローバルスタンダードとか言ってる経済中心の世界では、フェアトレードというものはそも成り立たないのではないかと感じています。
お金と言う道具の経済中心社会は、何かの加速的要素は持ちますが、それ自体が完成体ではないのです。
それ(報酬)がないと動かないという感覚の人の比率があまりに多すぎるので、とりあえず貨幣社会というもので変革を起こしたものの、今度はそれに固執し過ぎ、その楽さ加減に慣れて「お金だけあれば大丈夫」的な錯覚にとらわれていやしないか、と感じます。
もしフェアトレードを現代社会で実現するのであれば、作り手と買い手がダイレクトにやり取りするフィールドが必要な感じがします。中間搾取の素地をつくらないことです。
しかも原則定価というものを設定しません。
ある人には100円のチョコレートがある人には1000円でもいいわけです。
年収100万の人には同じチョコレートが100円で、年収1000万円の人には1000円でも感覚的には同額になります。
フェアの概念を、ものの定価に視点をもってくるから、どうも釈然としません。
そして物を作るにしても、物価は変動します。
貨幣社会では生産供給のバランスで原料単価が頻繁に変わるからです。
それを価格安定という視点から生産現場を搾取していたのでは、構造的に歪みます。
しかし買い手側からしたら、共感力が薄れるにつれそんな生産現場事情なんかどうでもいいと思うから、あるモノが不足したり価格が高騰すると、あることと定価に慣れてしまうで満たされない感も出ます。
中間搾取するところが間に増えると、ますます生産現場と消費側の距離が乖離し、ますます不明瞭になります。
そんな社会でフェアを謳っても、果たして本当にフェアなのかどうか、消費者という末端にいたらなかなか実感できません。
こんな世界でフェアトレードというのは、何を基準にしてこれが正しい言っていいのかよくわからなくなりました。
そもそも、正解というものも幻想に過ぎません。
生産者が消費者でもあります。それがフェアの原点かと思います。
サービス業はあくまでサービスであって、そこに対価を乗せると論点がぼやけるような感じがします。
(赤い電車ま~けっと主旨的なフェアトレードの概念)
これまで当会(布施院シェアマインド総研)は、生産者が消費者と直に接する場=コミュニティを多くつくることがそのキッカケになればと思い、小規模でも地域マルシェというものを企画してきました。
どうも、大量生産大量消費、大規模開催、経済成長、経済発展に慣れてしまうと、そういうマインドはなかなか響かないようです。出店者も消費者(お客様)もつい値段で物事を判断してしまいがちです。
とは言え何もしないでいるより、少しでもそういうことを考えていただく場は必要かと思います。
フェアトレードを考える場やイベント開催には賛成しています。
あとはそこに参加するみなさんのマインド次第です。
「赤い電車ま~けっと」ではそこまでテーマを求めていません。
単に、作り手と買い手、生産者と消費者がダイレクトに出会える場であることが肝要かと思います。
まずは「場」があれば十分です。
出店料を固定せず、積極回収せず、不用品を単に販売するようなフリマ的なものや、仕入れて単に利益載せて販売するだけの方を原則お断りしているのは、そういったマインドが背景にあります。
「赤い電車ま~けっと」の主旨をご賢察いただければ幸いです。
赤い電車ま~けっとの世界
(古き良き昭和の時代ってなんでしょうか)
上記、話が脱線したようですが、あながちそうでもありません。
会場となっている「谷汲駅」は古きよき昭和の時代の空気がまだ残っています。
経済成長・経済発展の産業遺構としての谷汲駅は、一見「時代遅れの経済成長・経済発展の亡骸」に見えるかもしれません。
あのころの日本は、確かに今ほど物は豊かでありませんでしたし、質もよくないものも多々ありました。
でも多くの人が能動的に接して活気がありました。
なくてあたりまえ、当たりハズレがあり、ものによってはかなり高額でした。
しかし、物を大切にしていた時代です。
今はあってあたりまえ、質がよいものをもっと安く、要らなければまだ使えるのに棄てると言う時代です。
社会をより良くしたいと思うのは誰しも同じかと思いますが、どうも現代社会は閉塞感が漂います。
行き詰ったら原点回帰。
なにか考えなおすという時期に差し掛かっているのかもしれません。
「赤い電車ま~けっと」
このま~けっとイベントは、そもそも昭和のそんなノリが漂います。(笑)
なくてあたりまえ、企画も当たりハズレがあり、いろいろ試しているところです。
それこそ昭和そのものです。
昭和を唱和と言い換えてもいいくらいです。
ダメであっても和を唱えることが肝要です。
あるものを持ちよって考える場、交流する場となればいいと考えているところ、昭和の復興期に似ていると思います。
この赤い電車ま~けっとのイベントそのものが「昭和ナイズ」された試行錯誤の場であります。
当初、売れない、儲からない、人が来ない、行き届いてない、不便ということが多々ありました。
すみません。 なんでも整っているところに慣れていると、ほとほといい加減なイベントです。
ステージ出演者さんが決まっていても、時間がきまってなくて、当日その場で皆で考える。
出店者さんは誰がくるかわからない、場所も決まってないから、空いているところを隣り合う人が話し合って決める。
混沌としています。
でも対話があります。
こうであるべき、こうでなければならない、という視点をちょっと外すと、知恵が出ます。
便利で行き届いた快適さはあまりないかもしれません。
それがまた心地よくなるような、昭和時代の村のイベントアトラクションか何かだと思って、なにがあっても自己責任で、なんだか場所的にも昭和の雰囲気を感じてくれて、谷汲に連れてきてもらった子ども達が大人になった時に、「そういえば子どもの頃来たなぁ」と思い出して、また谷汲に還ってきてくれる場となってくれたら幸いです。
ただ、そういう思いだけでイベントとして運営をしています。
谷汲地域にないもの
(空白世代の原因は経済成長・経済発展)
谷汲地域に係わるようになって最初に感じたことが、中間世代の不在です。
年齢で言うなら、大学を卒業する23~子育て世代の50までの年齢層です。
当然その層が薄いため、地域にはその下の子どもも少ないのは当然です。
子どもが未來というのであれば、未來が先細りしているという構図です。
全くいないというわけではありませんが、そのくらいの層が絶対的人口が少ないように思います。
しかし、地域には産業がありません。
お金中心の社会では外貨を稼ぐ必要があって、街へ働きに出ます。
そこまではいいとして、やがて初心を忘れて街に家を構えて地域に戻ってこなくなりますと本末転倒です。
経済毒にやられたといっても過言ではありません。(笑)
そうして先代が亡くなると空家というものが目立ち始めます。
こうした構図は今やいたるところに散見されるので今更ここで述べる必要はないかもしれません。
谷汲のような観光地であると、勢い商業ベースな素地があるためどうしても「お金」というものに捕われがちです。
復興期や伊弉諾景気のときはいざ知らず、景気が冷え込むと人は外遊することを控えるのも当然のことです。
谷汲の場合まだ有名なお寺があるだけ息が続いたのは、ご利益というものを求める人の心に援けられています。
参道には歴史ある店が並びますが、新たに外部から出店するような素地が薄いため、変化に乏しいのは否めません。
先代谷汲山華厳寺の管長が外遊した時、「これからはモータリゼーションの時代」といい、参道を車が通れるように整備したと伺っていますが、私見ではこれが失敗の元のように感じています。
谷汲山参道には生活道路というものがないため、参道を生活道路としてしまったために一般客も参道を遡上し、歩いて観て欲しい沿線の商店の活躍の素地を奪いました。
整備すべきは見目麗しい参道ではなく、参道裏手の生活道路だったのです。
そして現在の参道は蛍が飛び交うような清流の流れる歩道にするなど、貴船神社のような趣の、現代では貴重とされているような整備をその当時にしていれば現代のような廃れは食い止められたのかもしれません。
今これからでも行うならば、参道は完全歩道とし、裏手に生活道路を整備することが肝要に思えます。
それだけで人通りは戻ってきます。
そう思うと、経済成長・経済発展が地方の再生というのは眉唾のように思うのです。
経済成長。経済発展がすればするほど、弱者たる地方は廃れます。
(クレームは発展の宝庫)
暫く参道の観光案内所に勤務していました。
観光客から寄せられる意見やクレームは改善策の宝庫です。
身近な存在とあって、沿線の商店主やご家族からの意見や思いなども寄せられました。
町長に進言に行きたいくらいです。(笑)
そう思うと、むしろ観光案内所は市長や町長、村長などの側近職員が常勤すべきような場所に思えます。
定年退職者のアマクダリ先のような扱いや、お留守番程度の臨時職員雇用では、こうした意見は本庁にダイレクトには届きません。
いい経験をさせていただきました。
もちろん、谷汲山参道に限らずどの自治体や観光地でも有効なアイデアがありました。
ご要望とあれば、視察に伺って地域のことについてご助言することもいたします。
ご相談が必要な場合は以下のメールフォームをご利用ください。
(当会は有志研究会であってこれを商売としているわけではないので、他のコンサルタント業者のように法外な相談料は発生いたしません)
布施院シェアマインド総研 布施院博之
谷汲地域に必要なもの
キリが無いくらいたくさんあるので、いくつかかいつまんで吐露します。
生活道路
先述の通り、参道商店の生活道路が参道という点を解消しない限り、通行規制して参道に人を歩かせることが難しくなります。
ゆるやかな坂道なのでお年寄りが歩くにはきついのであれば、駐車場わきの観光案内所には今でも車いすもが基整備されています。あまり知られてませんがご活用ください。無料です。
生活道路があれば、商店主たちも能動的に動けますし、参道を行き交う人の安全も確保されます。
なによりも美しい紅葉と桜並木を護ることができます。
参道渓流
先代管長がモータリゼーションのために整備してしまった参道を、やや狭い昔の形に戻します。
車が通行しないのであれば参道を車道にする必要はないので、ここにちいさな渓流を整備してビオトープにします。
夏でも涼しく、蛍がくるようになれば状況は一変します。
もともと谷汲山には水質のいい渓流があります。それを観光客に見えない奥の護岸した川に放流しているのは観光資源の無駄遣いです。無駄遣いどころか活かしてません。
子どもや子育て世代の親、お年寄りなどを中心に、美しい水場があれば寄ってきます。
地元建設業者に共同で管理や整備を委嘱すれば地域産業も潤います。
地元小中学校にビオトープ学習や清掃活動を行えば郷土愛も芽生え将来外の学校へ進学しても回帰が期待できます。
コインロッカー
観光案内所勤務時代一番問い合わせが多かった案件です。
お寺さんの観光客はお年寄りが多いです、荷物を持って歩くのが苦痛な人もいます。
一方で安産祈願に訪れる方はお子さま連れだと尚更です。手荷物が多いのです。
1km以上もある参道では駐車場まで戻るのが大変なのです。
店内にコインロッカーを設置すると、間違いなくお客は二度ほど店頭に立ち寄ってくれます。
しかし、店外に設置することはおススメしません。
ヘタしたら夜中のうちに生活苦の家庭の子どもが入れられるなど、一昔前のコインロッカーベイビーが再来してしまいそうなくらいの経済疲弊の社会情勢です。
設置するなら店内であることが肝要で、そして必ず夕方に総て開けて確認する必要があります。
コインロッカーの扉には、メモと筆記用具を用意し、「お忘れ物の連絡先」を書けるようにしておきます。
ツアー客など、うっかり引き取り忘れた方にご連絡するフォローをすると、間違いなくその店のイメージがアップします。
無料休憩所
先述の通り、参道が長いです。要所要所に休憩スポットが必要です。
単に椅子があればいいというわけではありません。
日除け屋根があり、雨の時も退避できるとより良いです。
初対面でも複数の家族が談笑できるくらいの面積的な余裕があること。
畳台座や繊毛に唐傘など、外茶会のような趣があること。
参道商店の生活道路が整備されれば、参道に面した駐車場道路というものが空けることができます。
各店の横にそれらの休憩スポットがあれば、足早に帰ることなく商店に立ち寄ってもらうことも期待できます。
地域起こし事務所と職員・世話役
これほどの観光資源にあふれているにも拘わらず、谷汲地域には地域起こし事務所がありません。
参道沿線の若い世代が外に働きに出ているようなので、手薄になっているのかもしれませんが、商業活動を目的としない地域起こしの中核となるような寄合場が必要です。
地域起こし事務所は地域活性の要となります。
谷汲の場合、空き店舗はいくつかあるようなので、それらを利活用することをおススメします。
揖斐川町では総務省の地域起こし協力隊制度を利用しているようですが、派遣されてくる様子がありません。
派遣されるにしても、どこでもいいからそのへんの適当な空家をあてがえばいいというわけでもありません。
観光客や地域の人が気軽に立ち寄れる環境にあることが肝要です。即ち、参道に必要です。
そして、応募条件に合致する年齢であれば誰でもいいというわけではありません。
むしろ年齢は関係ありません。
総務省の規定なので致し方ないのでしょうが、そうであれば、社会経験も少なく、地域との地縁もない若い人がその地域で活躍して末永くその地に定着してもらうフォローが必要です。
これらを怠ると、任期が切れていなくなってしまい、元の木阿弥です。
雇用された隊員の個人的な素養もありますが、他の自治体の地域起こし協力隊の失敗例(不定着)をみると大凡そんな構図です。
移住者が定着するまでそれらの若い世代と地域のお年寄りなども含めてパイプ役を果たす世話役となる素養を持つ職員の配置は、総務省財源とは別に自治体が捻出する必要があります。
こどもトイレ・おむつ替え場・授乳室
これも参道観光案内所勤務時代にさんざん問い合わせがありました。
要は子育て世代の親が乳幼児を連れて来れないということです。
参道に公衆トイレはありますが、参道最上部と駐車場の1kmのトイレ空白地帯に子連れで駆け込める清潔な公衆トイレが必要です。
そのためだけにお店のトイレを借りるには躊躇することもあるでしょう。
そもそも店のトイレは店の客用です。参道の公衆トイレとして整備されてません。
個人の商店主にそれらの負担をかけさせるわけにはいかないでしょう。
子どもが一人で入っても安心な小サイズの便器が整備されていること。
おむつ替え設備が整備されていること。
そして授乳室が要所要所にあること。
この程度なら各商店主がお店に整備してもいいかもしれません。
母子が安心して居られる居場所があれば、観光地のイメージはアップします。
鮭の里帰りのように、子どものときに楽しく過ごせた場所には、人は帰ってきます。
裏を返せば、遠方からでも来たくなるような、母子が安心して楽しく過ごせない地域に未來はありません。
夜間デートスポット(地域起こし事務所利活用)
これも参道観光案内所勤務時代にさんざん問い合わせがありました。
若い世代からはデートに来ても店が閉まっているという苦情もありました。
昔を知っている世代からは、いつきても店が閉まっているという苦情もありました。
ある店主に訊いてみても、「来るかわからない客のために店を開けて仕込みして照明つけて冷暖房つけておくわけにはいかないから季節営業にするしかない」と言われました。
これでは賑わいも生まれません。
若い人からはオシャレなデートスポットがあればいいというご意見もありましたが、センスのいい店を招致すると、それまでの店が振るわなくなる可能性もあります。
そんな古参の店主の心配はともかく、現実問題として古の趣が失われてどこの観光地でも同じような雰囲気になるのはよろしくないのかもしれません。
仕事や学校が終わってから来ると店がどこも開いてないという意見もありました。
参道はほとんど午後3時頃には閉まってしまいます。
せめて外部から新規出店者などの新しい風を入れるのであれば、夕方から夜間限定の開店ならいいかもしれません。
車しか交通手段がないのでお酒を提供するバーをつっくっても仕方ありませんが、バーの一つくらいはあってもいいのかもしれません。
それこそ、地域に残っている若い世代が発起するのはいい試みかもしれませんが、いっそ空き店舗を利活用した地域起こし事務所を立ち寄り場として開放するくらいがいいかもしれません。
そこでこの地域の方も気軽に立ち寄っていただき、外から遊びに来た若い人の感性をいただけるかもしれません。
個人の店ではない、人々の交流点というのがそもそも谷汲に必要と感じます。
居留スポット(地域起こし事務所利活用)
これも参道観光案内所勤務時代にさんざん問い合わせがありました。
家族でお年寄りを連れて来たものの、老人が 「疲れたから待っている」
親子で子ども連れで来たものの、奥さんが 「子が寝ちゃったから待っている」
団体で来たものの、「参道に集合場所としてちょうどいい場所がない」
これこそ地域起こし事務所が参道中腹あたりにあると有効に機能します。
お店で待ち合わせするわけもいかない観光客が居留出来る場所が必要です。
観光案内所は自治体の施設です。
よって地域観光の案内を目的としているため、その活用範囲が限られています。
民間施設であればそのへんの不具合はもう少し自由になります。
揖斐川町では谷汲地域で森の幼稚園という事業がスタートします。その拠点は緑地公園ということになっていますが、そういった拠点を他にも多くもつことで、母子関係者の選択の素地が拡がります。
居留スポットでも参道でも母子イベントに使ったり、待っている間にさまざまな楽しみを提供したり、場合によっては大道芸や上映会、コンサートにも使えたり、時間に制約されない楽しみを提供できる場があれば、それだけ参道に人が留まる時間が長くなり、徐々に人のにぎわいも戻ってくる素地を生みだします。
これを個人的に参道商店が行うと、独り勝ちのような構図が生まれ、地域のまとまりがギクシャクすることがあります。
新たに始めるのであればあくまでそれまである周辺店舗営業内容に極力抵触しないことが運用条件となります。
例えば、居留される方が飲食を求められるのであれば、参道の各店舗からお取り寄せや持ち込みをするようにもできます。 自治体の観光案内所ではそれができません。観光案内が目的なので、飲食持ち込みが出来ないためこうしたものがあることで自由度が広がります。
居留スポットには、参道の個人商店の案内や地域の店の案内を積極的に置きます。
公共設備でないものの案内ができることが地域起こしとしての目的を果たします。
こういった施策に総務省の地域起こし協力隊員を配置したり、それにあわせて総務省から助成される費用を投入することで実現は可能とみています。
総務省の予算は人件費として年間200万円、付帯予算としてさらに年間200万円が付与されます。
初期の整備費用は施設改修費用もあるので不明瞭ですが、十分実現可能な施策であり、ゆくゆくは助成金がなくても継続運用可能な地域振興の資産となります。
ほかにも細かいものをあげればキリがないので(笑)この程度にしておきます。
(おわりに)
「この地域はもう何をやってもダメだ」という地域の方の声を幾度となく聴きました。
何をやったのかまでは詳しく伺えてませんが、イベントに予算と経費をかけてもそれは一時のことです。
そんなものに助成金や寄付金を使うことはバブル期のやり方です。
毎日イベントやって毎日必要な経費をかけているならいざ知らず(現実問題として無理です)、年間何日かの花火のために予算を投じても何も変わりません。
つまり、単にイベントをやっても継続した振興はしません。
谷汲地域には「赤い電車ま~けっと」「赤い電車まつり」以外にもフリーマーケットが後追いで開催されています。
必要なのは時々やるイベントではなく継続して居心地のいい場所の提供ができるか否かにかかっています。
「いつきても楽しい」とか「いつきても癒される」とかお金を払って得られるものでない場の雰囲気が大事です。
そして公共施設の運用を見直すことも肝要です。
ある自治体は景観を保持した上で大規模な施設を建設したりもしました。
維持費が高騰して数年で休館となるようなものはどこにでもある話です。
谷汲地域でもいくつか散見できます。
立派なものがつくられて、数年で使用休止したり稼働率が低かったりする大規模な建設物もあります。
使われてなくても若干の維持費はかかります。
維持費に膨大な経費がかかるような無駄のミニマム例はどこの自治体でもあるのかもしれません。
一方で、若干の投資であるものを活かしたり変えたりするだけで有効に機能するものがあります。
これからの時代のお金(税金)の使い方というものは、ドラスティックに変えるのではなく、あるものを活かすという沢山のミニマムな使い方であって欲しいと願う次第です。
お金は影のようなもので、動けばついてきます。
利権や契約など、先に影を落としておいてそれに縛られて身動きとれないようなことが自治体にこそ行われてないことを切に願う次第です。
自治体から仕事をいただいている企業は、これから先の未來その仕事がいつなくなっても困らないような体制を構築したところが生き延びることができます。
お金は概念。貨幣は可視化したそれが価値があると万人が思うことにしている概念のようなものかと思います。
そしてそれは人についてまわる以上、人が心地よく感じる場所には、そっとお金がついてきています。
この世にお金がなかったとしたら、人についている概念だけにその価値があることになります。
すなわち、人が集まる居心地がいい場所とは お金が自然に集まれる場所なのです。
お金が出回らない今こそ人が心地よく集まれる場所かどうかが問われています。
もし再び経済が復興した場合はまっさきにそういった場所(多様な人の集えた場所)が復興の先陣を切ります。
経済的な復興しなくても人が居続けるところは豊かであるということです。
谷汲地域にはまだその豊かさの素地が残されています。
そういった概念が整えば、豊かさははあとからついてきます。
地域振興とはそれを考える場です。
谷汲をはじめ地球の今後のスピリチャル的なアセンションを期待しております。
実は、このコラムにあるようなことは、継続的に「お話会」という名前のお茶会会合のような形式で、谷汲で開催し続けてきました。本末転倒ですが、最近では呼ばれて出張してお話会に伺うこともあります。
少しづつですが、今まで社会風潮の流れを疑問視する人が増え続けてきています。
僭越ながら、お声掛けがあればなるべく都合つけて伺わせていただきたいと思います。
きっとこの谷汲地域と同じようなことは、日本全国にあると思います。対岸の火事ではありません。
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いろいろ思うことを書かせていただきましたが、筆者が短絡的に思うのは、世界中の国が江戸時代のような社会体制で、総ての国々が自立し緩やかに世界とつながり、構造的支配や貨幣経済主導でないことが、戦争もない平和で豊かな世界になる入口であると思う次第です。
経済支配がある限り、地球に恒久的平和は訪れません。お金の扱い方が誤っているのかとさえ思います。
日々の暮らしにお金を中心軸に持ってくると、本質を見誤ります。
拙い長文の読破おつかれさまでした。(読んだ方いらっしゃるんだろうか……)
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出張お話会なども承ります。
赤い電車まつり実行委員会(FunFun谷汲・新田昭和会・庭箱鉄道)
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